諏訪市スポーツ協会沿革

はじまり(1932年「昭和7年」)

 明治末から大正にかけて、日本古来の武道をはじめ、野球、体操、陸上競技などの移入スポーツ盛んに行われ、冬季は日本スケート発祥の地として諏訪湖でのスケートが盛んに行われた。
 今まで同好者が結成していたスポーツ団体を町民体育と観光行政発展を目的として昭和7年11月スキー、スケートの2団体が発起人団体となり上諏訪体育協会が結成され、会長に町長、副会長に助役、専務理事・顧問には体育経験者、各学校の校長及び官公庁の長を選任し、事務局を町役場内観光係が担当した。

 

諏訪市体育協会の創設と再発足(1941年、1947年「昭和22年」)

 昭和16年8月、豊田、四賀の両村を合併して諏訪市となり、それまでの上諏訪体育協会が諏訪市体育協会として新発足したが、太平洋戦争により活動が中止、昭和20年8月の終戦により各スポーツ部門が発足したことを機に、21年9月諏訪市体育協会再設立準備会が設けられ、翌年2月に諏訪市役所において再発足した。

 

諏訪市体育連盟への名称変更(1949年「昭和24年」)

 その後、加盟協会の増加と諏訪市社会教育の振興を願って、昭和24年7月「諏訪市体育連盟」と名称を改め、役員も全員、体育経験者が選任されることとなった。
 昭和27年教育委員会が設置されるとともにともに、事務局を教育委員会内に移し、事務局長に社会体育係長を任命、昭和55年市庁舎内に体育連盟室設置が許可されたのを機に事務職員を採用し、諏訪市体育連盟としての自主的運営に踏み切った。

 

総合体育館建設と市町村合併(2000年「平成12年」)

  平成12年に「県レベルのスポーツ大会開催が困難な諏訪市の体育施設には、総合体育館の建設が必要と打ち出した新会長の会長方針のもと、翌13年に「総合体育館建設プロジェクトチーム」を発足させ、同年12月に計画図を作成し「諏訪市総合体育館建設に関する要望書」を諏訪市に提出したが、14年10月「諏訪地域6市町村任意合併協議会」の設置がなされ、以降合併協議のため中断となり、立ち消えとなってしまった。

 

市町村合併の中止以降の総合体育館建設(2006年「平成18年」)

 平成18年3月、平成大合併の協議が破綻した後の諏訪市総合計画に盛り込むべく、平成13年の「諏訪市総合体育館建設に関する要望書」踏まえて、「諏訪市総合体育館建設推進委員会」を体育連盟の専門委員会として設置し改めて建設の実現を図り、以降2年に一度の視察等も推進して市長要望にも盛り込むと同時に建設推進の提案を進め、平成29年以降は建設地を「旧東洋バルブ工場跡地」として、同地で従来開催されてきた「諏訪圏工業メッセ」にも利用可能な「多目的体育施設」建設を提案してきたが、「諏訪湖イベントひろば基本計画」が作成され、ものづくり(産業振興)を主軸とする計画とされたため、具体的な場所を提示しない要望へと変更された。

 

諏訪市スポーツ協会への名称変更(2019年「令和元年」)

 この間、合併協議破綻以降の財政状況等も踏まえて、体育連盟の「法人化」の検討も継続して実施するとともに、平成30年の「体育連盟」から「スポーツ協会」への名称変更にあたっては、加盟各協会の意向等のアンケートを実施し、平成31年4月から「諏訪市スポーツ協会」へと改称し、同時に発足以来の「協会旗」も新たに選定して、「笑顔輝くスポーツの力で賑やかな街づくり」をコンセプトに事業推進を図っている。